部活という阿片 日本はなぜ部活をやめられないのか
部活を何とかしないとまずいのは国も判っていて(もう手遅れに近いと思うが)、つい先月、こんなものを出している。令和2年からの改訂版だ。
学校部活動及び新たな地域クラブ活動の在り方等に関する総合的なガイドライン(令和4年12月)
これはまた今度触れるとして、今回は何で日本が部活をやめられないのか考えていきたい
■スポーツ産業の部活依存症
オリンピックを見ていると、アメリカ以外に日本ほどスポーツの盛んな国はないのではないかと思う。ありとあらゆるスポーツに選手を送り込んでいる。
しかしこれは"インチキ"をしているからである。
教育は金がかかる。そしてスポーツもだ。多くの国は国民全体に義務教育を施すのも精一杯である。
日本の場合、スポーツ選手育成の根幹となっているのは公立学校の部活動である。教師が放課後にスポーツ指導者となり、教科指導よりはるかに長い時間を費やして無償で指導を行っている。
高体連という公式大会を運営・実行をしている組織の構成員も教師で、無報酬といってよい。
日本のスポーツは奴隷が支えているのである。
南北戦争以前のアメリカや古代ローマではきちんと"奴隷"という身分が用意されていただけ誠実である。
奴隷が育てた作物は、甲子園などで品評会にかけられ、読売新聞といった連中が牛耳っているプロリーグや事業団チームに収穫され、彼らはそれで富を得る。
そうして得た利益を指導者に還元しているとはとてもいえない。私は甲子園や箱根駅伝が気持ち悪くて仕方がない。
スポーツ選手の原価はゼロ、という前提の上で今のスポーツ産業は成り立っているので、いまさら構造改革するのは並大抵のことではない。
部活動顧問というスポーツ指導者に最低賃金でもいいから、正統な対価を払ったらどうなるだろうか。
おそらく予算不足で多くのスポーツが継続困難になるだろう。
学校で自分がその競技に触れたからその競技の観戦をしている、そうした人間も多いので、プロも恐らく採算が取れなくなっていくだろう。
野球がまさにそうで、競技人口の減退とともに視聴率が取れなくなってきていて、それはアメリカでも同じである。
こうして日本のスポーツ産業など発展途上国レベルまで後退するのではないか。
■学校の依存① 広報
私立にとって部活動とは生き残りをかけた経営・広報戦略の要である。遊びでやってるのではないのだ。
入学試験の倍率が上がらないといい生徒が取れない、いい生徒が取れないと偏差値が上がらない、偏差値が上がらないといい大学へ生徒を送り込めない、いい大学へ生徒が送り込めないと知名度が上がらない、知名度が上がらないと生徒が集まらない。
このループをどう断ち切るか?部活で知名度を上げればよい。
実際、多くの私立高校では有名大学へ送り込むため用の生徒で編成した特進クラスと、スポーツ大会で看板を背負わせて戦わせるためのポケモンで編成したスポーツ推薦組みを作り、場合によっては完全に互いを隔離して運営している。
20年前までは底辺校だったのに、今は偏差値が上がってそこそこの進学校だ、という高校はこの戦略で成功した例が多い。
一度偏差値が上がってしまえば安定していい生徒が集まるので、だんだんとリスクの高い部活を切り離し、進学へ戦略の重点を切り替えることも多い。
これは高校だけでなく大学でも同じだ、なぜ箱根駅伝にアフリカから黒人を買ってきてまで参加しているのかといえば、知名度を上げて受験生を増やしたいからである。1人受けるだけで35000円。受験料だけでもちょっとしたものだ。
そしてこれは私立だけではなく、公立高校でも同じである。日本人は部活が大好きなので、当然保護者や生徒も部活が大好きだ。彼らにとって、どの部活でどんな指導を受けられるかも重要な学校選びの要素である。
我々教師としても、受験倍率が上がってくれるといろんな恩恵がある。公立は必ず定員一杯まで合格させなければいけないので、定員が割れてしまえば頭のおかしい受験生を落とせない。こうした生徒は我々だけじゃなく勉強をしたい子にも迷惑をかける。
いい生徒が集まらないと進学実績が落ちる。進学実績が落ちれば倍率が下がる。
私立も公立も同じだ。
学校は部活を手放せない。
■制度的制約
何度も引用しているが、東京都の場合正式に部活動を(勤務時間内限定で)校務としている。
第十二条の十二 学校は、教育活動の一環として部活動を設置及び運営するものとする。
私が部活動を拒否したときに、副校長が「(筆者を)どこにも配置しないわけにはいかないので」と言っていたのを覚えている。また校長も「(部活を)潰す訳にはいかないしね」といってたのは恐らくこう条例に書かれてしまったためだ。
保護者・生徒が望む限り、部活は"在る" → 部活は17時以降や土日に活動が発生するのは避けられない → 誰もやりたがらない → 勤務時間外の部活動を命令したら違法でパワハラ → でも部活には顧問がついてないといけない → 部活動指導員をやとったり、教師を部活動指導員として再雇用する財源は全部活用に用意できない → 保護者から指導者代を部費としてとれない → でも部活はつぶせない
破綻しているのに止められない。
■学校の依存② 教師単位の依存
過去にも書いたが、採用試験の倍率がもはや全入時代に突入していて、教師自身の学歴も急降下している。
そんな中、部活から卒業ができない、部活の続きをしたいから教師になった、という連中が増えている。
1つ前に勤務していた学校で、若い国語教師になぜ教員になったのか聞いたことがある。
彼は、プロになる以外に卓球ができる仕事は教師しかないからだ、と平然と言い放った。
彼らは自分が部活動をするのが生きがいなので、部活動を取り上げられるのをひどく嫌がる。
定期考査1週間前でも平気で練習を行う。本校では公式試合が1週間以内なら試験期間でも練習してよいと書かれているのだが、試合に出ない1年生まで全員部活動につき合わせていい理由にならない。
コロナ下において部活動禁止のお達しに真っ先に異を唱え職員会議で手を上げるのもこの連中である。だいぶ落ち着いた今ならともかく、志村けんが亡くなったあの時期でさえ、都の通知を無視して活動を行っていた部活動の話を聞いた。
人生のすべてをボール遊びで過ごしてきた人間たちで、そのほかに何の知性もないので、世間の常識から考えてどうなのか?という判断はこういった人間にはできない。
生徒の将来のためにどうか?ではなく、あくまで自分がやりたいだけなので、過労死ラインを超えて練習をさせてしばしば生徒を壊したりもする。
しかしこういった人材は学校では重宝され発言力を増していく傾向にある。制度上の話でも書いたが、無償の奴隷労働を引き受けてくれるだけありがたいので、管理職としては彼らの機嫌を損ねたくないのだ。
この連中の最も有害な点は、同じ労働者の立場でありながら、部活動に"熱心"でないほかの教員に圧力をかけ、その同調圧力によって部活動の顧問をやらせる点である。
彼らは、いい教師は部活をするべきで、勉強を教えたいだけなら塾へ行けばいいと思っているし、いい先生は部活を教えるべきであり、部活を教えないのは悪い先生だと考えている。
ある教員が夏休みに5連休を取っただけで陰口をたたかれる話も聞いた。ちゃんと部活をやっていれば5連休も取れるわけがないだろ、というのが彼らの主張らしい。
あるバレーボール部顧問の女性教員は職員室で、最後に2連休を取ったのがいつか分からないからどう過ごしていいか分からなかった、と大声でお仲間の部活動主顧問たちと話していた。しかしその顔には悲壮感はない、達成感だ。
学校現場ではこのような哀れな狂人こそが理想の労働者で理想の先生なのである。こんなものに付き合わされる生徒もたまったものではない。
こういう話もそのうち書こうと思う。
話を戻すが、教師自身が部活動を手放せず、やりたくない教員も部活動をしないことで攻撃にさらされるのを恐れて、部活をやめられないという現状がある。
■生徒自身の依存
これも独立して書こうと思うが。生徒自身が部活動にがんじがらめにされて抜け出せない構造になっている。
共に授業を受け、共に食事をするだけでなく、余暇の大半、毎日16時~19時位まで、週に5日からひどければ7日間、同じ学校の同じメンバーと彼らは時間を過ごしている。
部活動を抜けるというのはそのコミュニティーからの脱退を意味し、しばしば人間関係の終わりを意味する。
SNSが発達し、過去よりもさらに人間関係で油断ができない現代において、部活を辞めるという選択肢は非常にリスクが高いものになっている。
また、部活動顧問自身が幼稚で馬鹿なので、部活動をやめるのは"逃げ"であり、心が弱い人間だと平気で口に出す。こんな連中に指導されたほかの部員だって、同じように辞める生徒を評価するかもしれない。それは時にSNS上でのいじめに発展する。
そして、そんな部活動顧問は入学試験において面接官という受験生を選別する側である。部活をやっていれば高校入試や、場合によっては大学入試で有利になるのだから、部活はもはや進路活動である。
加えて、そういった部活で育成された脳筋体育会系脳が企業に多く送り込まれ、運動部あがりの人材を好んで採用していたりもする。
部活は自由意志の活動ではなくなっている。死活問題なのだ。
■保護者の依存
学校は無料の保育所である。
日本は教師以外の労働環境も終わっているので親の帰宅時間も遅い。
偏差値が低くなればなるほど片親の率はあがるし、進学校だろうが共働きの親がほとんどある。保護者も15時で生徒を返されては困ってしまうことが多いだろう。
なので、20時まで、部活動をやっている、という大義名分と共に子供を預かってくれる部活動とは共生関係にある。
夕食は家族で食べるもの、という文化がそもそもないこの国では、夜遅くまで子供を返さない教師はむしろ”いい先生”である。
生徒はいつしか親になる。彼らもまた、部活動を楽しんできた人々で、10代のキラキラ輝く思い出は強く部活動の思い出と結びついている。
それは非常に感情的であり、私は部活をやってよかった、と思っている。
部活をやらなかった私と、部活をやった私、比較してどうだったか、と多元宇宙的な観測は不可能なので主観的にならざるを得ない。
多くの国にはそもそも部活は存在しないので、そうした国の人間は悲惨な10代を送っているだろうか?と私としては考えてみてほしいのだが。
ともかく、その愛ゆえに、自分の子供にも部活をやらせてあげたい、と彼らは思っている。
保護者も部活の改革など望んでいないのだ。
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私は高校で留学し、アメリカの高校を卒業しているが、この麻薬ビジネスに組み込まれず、外から眺められる視点を持てたことに感謝している。
というか私は部活は麻薬を通り越して宗教だと考えている。
果たしてこんな現状で今後なにか変わるのだろうか。