部活動が日本を後退させる
日本ではなぜだかスポーツをすると、ほぼ必ず、体育会系思想に暴露する羽目になる。
多くの人間が学生のうちにこの危険な疫病にかかり、企業といった組織を汚染する。
感染源はいうまでもなく部活動である。
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①体育会系は如何様にして有害か
体育会系は反知性主義的である
文明レベルが低く社会や個人の暮らしが現代よりもずっと単純だったころ、人や組織は一つの事に集中していればよかった。
例えば、剣術道場では剣術をやればいいし、農民は田畑を耕してればよかった。
こうした生活の中で作られるコミュニティーは1つの尺度でその構成員を評価すればよい。
だから、剣術道場の中では、先に剣術を始めていたものが遅く始めた物よりも発言力があるのは理にかなっている。先に始めた方が剣術に関して知識・技能が上である、という推定が働くためだ。
私が中学生のころから2023年までの間ですら、インターネットが56kから光回線になり、PHSからiphoneになり、ポケベルがSNSになり、3Dプリンターが家庭でも扱えるようなものになった。
このように変化が速く、次から次へと登場する新種の問題に対応し環境に適応しなければ生き残れない現代社会においては、先に始めた者が知識・技能に優れているという推定は働かない。
例えば、SNSを使った広報活動なら入社したての20代のほうが、入社して30年の大ベテランよりも有能だろう。
なので現代社会では年齢や勤続年数にとらわれず、多角的に人材を評価し、また役職に関係なく、広く意見を拾い上げ採用しなければいけない。いろんな知識をもった人間が自由に意見を交換して新しい価値を創造しなければいけない。
しかし2020年代においても、体育会系の集団の中では、"上"のいう事を"下"は異議を唱えず実行することが好まれるし、"下"が"上"に意見をするのは悪いこととされる風潮が居座っている。
すべての人間を、どちらが先か、という単純な指標でもって"先輩"と"後輩"に分類し続けている。
これは、この問題に関してどちらが見識を有しているか、という判定を経ずに行われる、決して覆らない力関係である。
その結果、自由な意見交換は失われ、一方的な伝達になる。
正しい知識よりも、上下関係に起因する幼稚な"面子"や"示し"が優先されてしまう。
新しい価値は産まれず、問題は解決されず、いつまでたっても古い価値観が幅を利かせ続けることになる。
これは反知性主義である。
私はこれが日本企業がIT分野で出遅れた要因だと考えている。若いIT技術者よりも、松屋の券売機もろくに扱えない耄碌した老人のほうが権力を持ち続け、その老人の判断に異を唱えることは反逆行為的とされるわけである。
こうして日本は国際競争力を失っていくのではないか。
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②体育会系が生徒と学校の多様性を殺す
体育会系=運動部というのは、先に挙げた例でいえば剣術道場、歯に衣を着せずもっと適切な例えを用いれば、創価学会や統一教会といったカルト宗教と同じ構造をした集団である。
野球部の場合、野球という唯一の指標で序列が決まるので、どれだけそれに忠実であるかがこの集団では重要な指標になる。
なので、成績が落ちてきたので今日は部活を休みたい、とか、今日は彼女と遊びに行きたいので部活を休みたい、というようなことを言えば、宗教指導者である部活動顧問から、そんな中途半端な気持ちなら来なくていい、と指導を受ける羽目になる。
一神教は他の神の存在を認めないのだ。
その結果、生命活動維持に必要な時間と授業を受けている時間以外のすべてを野球に捧げる羽目になる。
創価学会や統一教会では、どれだけお布施をしたのかが信者間の序列を決めるが、運動部では自分の時間をどれだけ捧げたかが重要になるだけの違いである。
〈time is money)の公式に代入すれば、〈野球部 is 統一教会〉になるので、違いはないことになるが。
平日の朝は7時台に登校し今日の野球に祈りささげ、夜は8時9時まで集会に参加してから帰宅して仮眠をとる。土日も基本的に両方、朝から晩まで、時には他校の野球部と教会で祈りを捧げる。
そうしている間はたとえ赤点を取っていても「野球頑張ってるね」と全肯定されてしまう。誰がこの敬虔な哀れな子羊を否定できようか。だって野球を頑張っているんですよ?
こうして、多感な思春期をすべてボール遊びに費やし、野球しか知らない人間として育っていく。本を読んだり、野球をやっていない人間と意見交換をし、世の中には様々な生き方や考え方があることを学ぶ時間など彼らにはない。
そしてその中の何%か部活顧問として、大学を卒業し、社会人経験を経ずに、学校に帰ってくるのだ。今度は指導者側として。
多様性とは、自分とは違った生き方・考え方をする人間がいる、と存在を認知するところから始まる。このようにして出来上がったボール遊び人間は、世の中にはほかの価値観が存在するかもしれないという疑いすら抱かない。
だから、部活ちょっとやりすぎじゃないですかね、とでも言おうものなら話し合いという過程をすっ飛ばしてダイレクトに喧嘩になってしまう。
部活より勉強が大事という価値観が存在するかもという疑いすらないからだ。
現在主要な部活動の主顧問を務める人間は、使うボールの種類が違っただけで同じものである。ボールの種類には多様性があるが思想は1つ、体育会系である。ボールが胸についていようが股にぶら下がっていようが、持っている教員免許が英語だろうが体育だろうが、である。
過去の記事で述べた通り、部活動とは無償の奴隷労働である。正常な精神をしている人間ならだれもやりたがらないので、これも過去の記事で述べた通り、採用試験の倍率は悲惨なものになっている。
こういった中、教員として帰ってくる者に占める体育会系の比率は必然的に上がっていく。部活がやりたくて教員を志すからだ。
そして、奴隷労働をやってもらっている側であるわけだから、管理職からも彼らは重宝されていくことになる。
こうして教育現場もまた、多様性を失い、画一的な体育会系思想がますます幅を利かせていくことになる。
すでに部活を批判するのはタブーであり、それをするものは神に仕える司祭に唾を吐きかける異教徒扱いである。
こうした学校現場からはますます、画一的な、部活と受験しか知らない子供が生み出され、また社会を体育会系で汚染していく。
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体育会系とは日本独自のガラパゴス文化であり、世界で普遍的に通用する真理ではない。ただまぁ、このような極端な上下関係を好む集団はおそらくどの国にも2つある、1つは軍隊でもう一つはマフィアといったゴロツキである。