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観点別評価導入で失われる知性

ダイジェスト:

観点別評価の導入で、努力は結果で示すものから教員に対してインスタ栄えするように、アピールするものに成り下がった。

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2022年四月から高校の教育課程が変更された。

 

これにより"コミュニケーション英語"という科目名が"英語コミュニケーション"に変更されるという革命的な出来事が起きた。

私はコミュニケーション英語という科目名を初めて目にしたとき、

ああこれは「我が国はこれからも英文法を軽視して参ります!」という文部科学省の決意を、科目名自体に文法ミスを仕込むことで表明しているんだな。知能の低い文部科学省の方々が考えたにしてはウィットに富んでいるものだなぁ。

としきりに感心したものだったが、どうも意図しない不具合だったようだ。

 

それに比べれば瑣末な変更点なのだが、中学校では導入されていた観点別評価が高校にも導入されてしまった。これにより私は日本のインテリジェンスがさらに失われるのではないかと危惧している。

 

まず従来の成績のつけ方の説明をするが、まず前提として、中学も高校も一貫して相対評価であり、絶対評価ではない。

どの学校も教科ごとに内規があり、評定2~5のそれぞれの生徒の比率と、全生徒の評定の平均値がたとえば、大体3.6くらいになるように、などと定められている。

 

ではどうやって評定を決めてきたかというと、〈①定期考査の点数+②学習態度点(授業態度や提出物など)〉だ。

ここで一番大事なのは①と②の比率で、客観的な指標である①に比べて②は教員の主観の余地が大きい。

進学校では学校推薦の校内選考が各候補者の評定平均で決まるので、公平性と客観性の観点から①の比率が高く、場合によっては②はまったく考慮しないこともある。

底辺校ではまず躾や治安維持が必要で、そのための唯一の武器である②の学習態度点の比率が高くなる傾向になる。それでも①と②の比率は8:2程度だろうか。

 

次にこの4月から観点別評価でどう変わったかの話をする。

生徒は3つの観点から評価される。

①知識・技能

②思考・判断・表現

③主体的に学習に取り組む態度

である。これらを具体的にどう測定するかはいつも通りの「学校や教科の特色で現場が判断しろ」である。

我々高校教員は、各員が大体200人程度の生徒に授業を実施している。授業は週に2回または3回程度で、1つの教室には40人が座っている。行事も多く教科書を進めるだけで結構手一杯な状況である。

この状況で生徒をある程度公平に客観的に評価をしようとすれば、定期考査と提出物と、あとはせいぜい1回か2回の発表活動が関の山、ということになる。

そうなると、①と②は定期考査で今まで通り測ることになる。そして③は提出物の提出率というデータに頼ることになるだろう。

 

ここまでなら以前と変わらない。が、問題は①、②、③の比率である。

これはご丁寧に都教委が直々に、校長連絡会を通じて指示してきた。

 

比率は1:1:1である。

 

つまり、以前は進学校では0かせいぜい5%程度で、底辺校でも20%程度だった提出物の比率が、33%まで上昇してしまう危険性があるということだ。

また、提出物で測らなくても、人間の意欲というものは、勝手に公権力が定義し測定すべきでない。

 

すでに理解している単元の退屈で作業的な課題を一生懸命行うよりも、その時間を自分が必要とする勉強に充てるべきである。

積極的に取り組んでいるように見えるが定期試験で点数が取れない生徒は本当に意欲的なのか。

授業にどこか集中していないけども定期試験で8割とる生徒は意欲的でないのか。影ではすごく努力をしているかもしれないではないか。

 

この改定により、意欲は結果で示すのではなく、教員に対してインスタ栄えするようにアピールするものになってしまうのではないか。

 

私の学校では提出物は事前に答えを配ってしまっている。馬鹿くさいからそれなら最初から宿題として出すなというのだがやめてくれない。

私の学校で意欲を示すなら、答え丸写しして赤ペンで丸をつけるだけでいいわけだ。

こんな無意味な作業をするぐらいなら、むしろやらない人間のほうが私は知能が高いのではないかと思うのだが。

 

すべての生徒が等しく必要とする学習内容になるように繊細に宿題なんかデザインされていないし、教員自体がそこまで賢くもない。

勉強とは自分に必要なものを自分のペースで行うべきである。

生徒に対して宿題を強制するのは、勉強の主導権、つまり主体性を奪うものである。

 

しかしこの改定で、そういったことが理解できる生徒よりも、ただ言われたことをやるだけの生徒のほうが「好ましく優秀な生徒」と定義されることになる。